昭和四十五年四月二十五日 朝の御理解
X御理解第一節 「今天地の開ける音を聞いて眼をさませ」
今日は御理解一節を頂いておりますけれども、本当はその御理解一節の前の所の白紙の所ですかねぇ。白紙の所を頂くのですよ。そして御理解第一節を頂いた。
翻然として悟ると云うか私はそんな言葉でもまだ今日の場合、足りないやうな気が致します。今、天地の開ける音。
御本部の春の御大祭を私共は四月に頂きましたが、皆さんお参りになられた方は御承知のやうに御祭典の時はああしたお天気のおかげを頂きましたけれども、その道中から、ずっとおしめりでございましたね。小倉の今度の御大祭も、ここと同じでございますから、やっぱりおしめりであった。
昨日は久留米の御大祭でしたが、やはりおしめりでした。ここの時は丁度親先生をお迎えする頃から、おしめりは、大体上がりましたけれどもね、昨日なんかはもう御祭典中も、おしめりがあっておるとゆうやうな状態。
今日は甘木の御大祭です。やはり、おしめりです。小倉の御大祭におしめりがあった事がないと云われる、久留米だってそうであった。甘木なんかもそうである。もう、それこそ降りよっても降り止むとゆうのが、そうゆう大徳を受けられた先生方の所での御大祭とゆうのは、「ああ甘木の御大祭ならお天気だ」と相場は決まっておった。
ここの場合でもそうですよねぇ、二十何年来、ここの御大祭に雨が降るとゆうのは‥‥‥。
そして御本部の御大祭のおしめりからずーっと小倉、久留米、甘木、合楽と、おしめりが有る。これはもうどんなに人間の知恵やら力やらどんなに科学が進歩しましてもね。これを途中で受け止める事は出来ませんけれどもです。段々おかげを頂いて御神徳を受けて参りますとね。途中まで降りよっても神さまが受け止めて下さる程しのね。途中まで降りよっても神さまが受け止めて下さる程しのおかげが受けられる、天地が自由になる程しのおかげが受けられる、と教祖さまは教えておられます。その事を教祖さまは「わしは今頃、天に一家が出来たから」と云うておられます。天に親類が出来たとおっしゃった。だから心やすう、天に伺って相談が出来る。明日、こんな訳じゃからおしめりがあっておっても、おしめりがないやうにと云や、一家親類だから天が開いて下さるといったやうな意味なんです。わしは今頃天に一家が出来たと云うておられます。
私共も、もう本当に私の為に天地が自由自在になって下さる。体験してもう本当に勿体ないけれども、いやとゆう程頂いた。どんなに雨風があっておっても、さあ私が出るとゆう事になったら、あかりよった。私が出てから外で雨が降り出すと、私の後迄は降ってきても、私が歩くしこずーっと降って来るとゆうやうなおかげ頂いた。暑い炎天の時なんかは今日は涼しく歩かして下さると、神さまがおっしゃると、もう雲がずーっと私の上に日かげを作って、私が椛目から中島の上滝さんと所迄あちらにお話しに行く時なんか、そうゆうやうなおかげを頂いておった。まあ、そうゆう例は、それこそ枚挙にいとまがなかった。程しにですね。云わばおかげを頂いて来たんです。
これは久留米の石橋先生だって甘木の初代だって小倉の桂先生だって、それをやはり体験された事であろうと、私は思います。
日吉先生の所にお祭りにおい出られる時に大変におしめりがあって、途中大変難渋された。そしてあちらの教会にお着きになってから、「お前の信心が出来んから師匠がこうやって来るのに雨が降るじゃないか、俺はどんなにしろしい思いをしてやって来たか、又今日集まって来る信者が皆んな不自由するじゃないか、お前の信心が致らんからじゃ」と云うておしかりになったとゆう事です。だから日吉先生も以来ですね、もうその事についての、一生懸命の御祈念をなさり、以来あちらの御大祭に雨が降ったとゆう事がない程しに、例えば桂先生御自身が御弟子の御大祭におしめりがあったと云うてしかられ位ですから、御自身の所では勿論そこのところは、もう自身たっぷりのやうなものがおありになったんじゃなかろうかと思う。
にもかかわらずです。御大祭にズラリおしめりが有った御本部をはじめ‥‥。 私はここにね本当に今日感じさせて頂きます事は、私共が天地にすがらなければおられない、願わなければおられないやうにです。天地も又、私共にすがらなければおられないとゆうところがおありになるやうです。天地とゆうよりも神さまは又、私共氏子におすがりならなければ、出来られない所が有るのです。
と云うてです。誰に彼にすがったところで仕方がないでしょう。力も無い者にすがられたって仕方がないでしょう。そこで私はやはり力のある所、力のある者に天地があがられると思う。私は今日、そうゆうものを感じたですねぇ。 少しでもそこに天地を自由に動かす事の出来る力を頂いておられる人達の上に、天地がすがってござるとゆう感じがする。いや今年とゆう今年は、そうゆう年柄なんだと、今天地の開ける音を聞いて服をさませとゆう事は、そうゆう大きな意味に於いてです。云わば識者関係の間に於いてだけでも、そこんところが分かってくれ、そこんところが分かる人達だけでも、ひとつ眼を覚ましてくれと。
私がそんなら今年一生懸命皆さんに聞いて頂いております。今年とゆう年柄、七十年とゆう年柄はです。もう大変な岐路に立つ年柄だと、いよいよ和賀心時代に突入しなければと、人間の本当の幸福を求めての云わば第一歩と云うか、それは私共人間がです。素直にです。文句を云わずにです、あまり単純のやうですけれども、本当に素直にです人間の幸福とゆうものがです。心に有るのである。しかも心が喜びに充ちてくるとゆうところにです。人間の幸福があるんだ助かりがあるんだと。
そこで今日私が頂きましたこの白紙の所をです。そうゆう意味でです。過去にどうゆう素晴らしい教えを頂き、理屈で知っておっても私共がまず白紙にかえってです。本当の幸福とはとゆう、その第一歩を自分の心の中に頂かなければならんと、ひとつ気付かせて頂く、それこそが天地の開ける音を聞いて眼をさまさせてもらう、とゆうやうな事をです。神さまが人間氏子に、そうゆう事をすがっておられる。
と云うて、そんなら誰彼にすがったって、知らん顔しとるしね、分からんから、そこに少しでも分かる者の上にです。神さまがすがってござるとゆうのを今年の春の御大祭の御本部をはじめとして今、私が申しました九州の云うなら一流教会、まあ合楽は一流とゆう事ではないです。けれども、私自身もここ何十年来、天地がバックだといつも私が申しております。
だから、こんなに心強い事はないと、私は皆さんに聞いて頂いて、そこを信じておるとゆう事は事実ですから、やはり合楽にもすがられた。
何かの形によってです。すがられた。この正月の何日の日だったでしょうか。熊本の富永先生がお参りした時に頂いたのが、天地新春とゆう事であった。天地に春が来る、私は私共の生き方の上にも節がありますやうにね。天地にも大きな節があると思うのです。天地の働きの中にも‥‥‥。
人間がそれこそ何百万年も昔から、この地球上に人類が住むやうになったと、云われておる何百万年かの昔からです。その時、その時代に大きな変革とゆうものがあっておる。
一番初めに人間が火を発見した。そこから人間の生き方がもう大変な大変わりをしたとゆう事。火の力を利用する事を覚えた訳です。水の力を利用する事を覚え、最近に致っては電子の時代とゆうやうにです。
そこに人類の大変革の時期といったやうなものがです。私は今日は天地の節だとこう思います。又、私共の大きな節でも勿論有ります訳ですけれども、いわゆる人間が月の世界にでも行けれるやうになったとゆう程しの年。そこからね、どうゆう時代が転回してこなければならないかと、いわゆる精神革命、それを私は和賀心時代に突入しなならんと‥‥‥。
人間がひとつ純粋に素直な心で白紙になって人間の本当の幸福とゆうのはです。和賀心にあるんだと、いち応が合点させて頂けるところ迄、進めてゆかなければならない。天地にもそうゆう意味に於いて、新しい春がやって来たとゆう感じ。
昨夜、御祈念に「天地清風」とゆう事を頂いた。丁度昨夜の御祈念にかからせて頂こうとする寸前に、古川の家から電話がかかって来た。豊美達が帰って参りまして、おじいさん達が帰って参りまして、おじいさん達の部屋いっぱいに、ここから頂いておるおみやげを、これはおじいちゃま、これはおばあちゃまとゆう風にして、おみやげをいっぱい広げて、もう皆んなで喜び合っておりますと、ゆうお母さんからの電話であった。
私はこの度十八日の日に参りましてから、あの人達は連続でお祭りを四回頂いて帰った訳ですねぇ。
月次祭、前夜祭、御大祭、三十三日のお月次祭、と。まあ、その間、あの人達が来ておる為に、たくさんな云わば散財をした訳です。だからその事。お詫びやら、お礼やらさせて頂いておりましたら、この事を頂いた。
一家中の者がですねぇ、本当に喜びにあふれておる時こそ、私は天地清風じゃなかろうかと思う。私共の大天地に対する小天地を云われる私共の心がです。本当に清めに清められて心の中は、その清められた中から生まれてくる喜びとゆうものがです。私は天地清風だと思う。
天地全体がね、清まらなければならない時期に到達しておる、今年とゆうのは、そうゆう大変な事に取り組ませて頂いて清めてゆかなければならないとゆう年なんだ。天地にみなぎる清い風と、そこに人類の幸福が有るんだ、それにはね、私共が、素直に人間の幸福は心にあるんだ、しかもその心は和の心にあるんだ。賀の心にあるんだと天地に調和する程しの心、人の心と心とが円満に和し合う心、全てのものと和してゆけれる心、祝賀の賀とおっしゃる心の中が何とはなしに、たくさんなおみやげを頂いて、ああよかったね」と言って喜ぶやうな心。
そうゆう心がね天地にみなぎる憎む、恨む、ねたむ、ありとあらゆる神さまの御気感に適わん、お心を悩まし奉るやうな心がうじゃうじゃしとる。天地いっぱいに‥‥‥。傷付け合い、殺し合い、もうそれこそ大変なしらどうのやうな状態を呈しておるやうな姿が戦争の姿である、そうゆう中からです、天地を‥‥‥。
今朝私が頂く事が天地一新と頂いた。三代金光さまが全教一新とおっしゃておられましたが、全教を一新するどころじゃない。天地が一新しなければならない。天地にも大きな節が有る、しかもその天地が節のある時に天地が人間氏子にすがってござる、と云うて、いくらすがっても気がつかない氏子、それを受けて立てれる氏子、力のある氏子にすがってござる、そうゆう姿をです。私は今度の九州全般にわたって、いわゆる大体合楽は別としましてです。小倉、久留米。甘木といったやうな三大教会の上にかってないおしめりの御大祭といった事はです。いよいよ天地が天地一新を願うておられる天地の親神さまのおすがりになっておられる姿であると、私は今日は悟らせて頂いたと云うよりか本当にそれを神さまのお声を聞くやうな思いが致しております。
今天地の開ける音を聞いて眼をさませ、大きな意味合いに於いてのです。今年とゆう年柄は大転換期にあるのですから大転換期である事の例えば意味と云うか、その内容をです。どうゆう風に転換するべきかと、どうゆう風に変わらなければならないかと、まず私の心の上です。天地新春であり、天地清風であり、私共の心が一新して新たな云わば何にもなかったものとしてです。白紙にかえってです。もう只、純粋に素直に和賀心を求めての生き方に変わってゆかなければならないとゆう事をです。私は思います。
そうゆう事をですね。気付いてですね、皆さんが眠っているのを私が揺り動かしている訳です。起きなさい、起きなさいと、もう起きらにゃん時間ですよと、まあだ眠っとるですかと、さあ早う起きらにゃと、私が今年になってその事を皆さんに聞いて頂いておる又皆さんを眼をさましてもらおうと思うて一生懸命になっておる訳でございます。
昨日は二十四日で北野の共励会でした。秋永先生があちらへおかげ頂いておった、帰ってからのお話しの中にです。「親先生がいつもあげん和賀心、和賀心と云いなさるが、和賀心ちゃどげな事ですか」とゆう質問が出たと。
そんなら第1和の心ちゃ、どげなこっと思いますかと云うたら、誰あれもそれを本当に説明しなかったと、私はそれを聞いてからガッカリしてですねぇ。 これは一人一人がです。只聞いておるだけではなくて、自分のものに、これこそが和の心だ。これこそが賀びの心だと、自分の心の中から、はっきり頂かなければ、聞いただけではそのやうにも分からないものかと、私は思うた。
いわゆる椛目時代から二十何年の信心をしておる人達がです、それに対する本当の説明をしようとしなかったとゆう事に致ってです。まあだ眠り続けておるんだなとゆう事ですよ。
よっぽど眠いのだろう、どんなに起こしても、起こしても眼がさめん、「ああ、それだと!」ゆうやうにですね。例えばそれこそ冷や水をかめられたやうな思いで眼をさまさせてもらうやうなね、おかげを頂く迄は、私はだからこの事を説き続ける事でしょう、そして皆さんの心の中にいわゆる天地清風です、した時こそ皆さんの心の中に一新が起こってくる。
今日はそうゆう意味で、今天地の開ける音を聞いて眼をさませ、今こそ、いや今年こそ、本気で私共が眼をさまさせて頂く。
この月次祭に私が申しました。願いの信心から願わずにはおられんとゆう信心、只自分の困った時だけ、どうぞお願いしますとゆう信心を願いの信心、これは信心の一番幼稚園のところである。そこから信心が少しずつ分かってきてです。願わずにはおられんとゆう信心、それは自分自身とゆう事の正体が分かってくるから、自分とゆう者の心の状態が分かって来るから、障子ひとえがままならぬ人の身と教祖がおっしゃるが本当に人間万事です障子ひとえがままならぬ人の身である事実をね、いよいよ分かってくるから、云わばすがらずにはおられないとゆう心の状態をもってです。私共はね、それをすがる、それを願うならばです。一心に頼め、おかげは和賀心にありとおっしゃるのですから、私共が一心に頼まなければおられない事ばっかりの中にある私達、この事だけは願わんでもよいとゆう事は、ひとことだってない全てが願わなければおられないとゆう信心に、私共がならせて頂くところから、障子ひとえがままならぬ人の身である事が分かる、吾無力であるとゆう事が分かる。障子ひとえがままならぬ人の身であるとゆう事が分かる。そこから、すがらずにはおられないとゆう信心が‥‥‥。
そして、そのすがらずにはおられないそこから神の声が聞こえてくるとゆう事は、御神訓の中にもありますやうに、一応頼め、おかげは和賀心にあるのだぞとゆう神の声が聞こえて来る。
さあ一応に頼んでおるが、そんならお前の心の中に和賀心の頂ける事も又一応に頼んでおるが、そんならお前の心の中に、和賀心の頂ける事も又、一心に願わなければならないぞとゆう事なんです。そこから人間の幸福の第一歩がある訳です。すがらなければおられん、そのすがらなければおられん事が御成就になっていく。それ神さまの願いが御成就になっていくのと同じ事。只、私共がポツンポツンとこの事だけは頼まにゃならん、願わにゃならんとゆう時にはそれは皆さんの願いが成就するのであって神さまの願いが成就するとゆうのではない。
私共は何んにも出来ん、吾無力とゆう自覚に立って願わしてもらう、すがらせてもらうところから、神さまの願いが成就してくる、云わば第一歩と云うてもいいでしょう。
そこに神さまと、私共とのかかわり合いと云うか、あいよ、かけよと云われる神さまも助かって下されば、私共も助かっていく道が開けてくる。
そうゆう例えば状態の中にです、神さまが私共が一心に頼むとゆう事と同じ意味に於いてです。天地の親神さまが又、私共氏子に云わば本気で一心にすがっておられる姿をです。私は、この度の春のあちらこちらで開かれる御大祭のね、とりわけ九州の大教会と云われる小倉、久留米、甘木当たりの教会におしめりを通して感じさせて頂いた事を今日は皆さんに聞いて頂きました。その事を、天地が甘木にすがってござる、そうゆう切なものをですねぇ、私共は感じる。 だからすがってござっても、知らん顔しとるなら、どうにも出来んけれどもね、それを私が横から見ながら感じておる。いよいよ、神さまがすがってござるなあと、これは私共が本気で、それにオーッと応えれる信心を頂いてゆかねばならんなとゆう事を思うのでございます。どうぞ。